「伝える意志」が持てるかどうか

英会話は「手段」でしかありません。なんの手段かというと、「コミュニケーション」の手段です。誰か違う母国語を持つ相手とのコミュニケーションのための手段です。

英会話を習得するだけでは「コミュニケーション」は叶いません。それは「コミュニケーション」をとる「意志」は英会話を習得するだけでは身につかないからです。誰かと話す、誰かと意思を疎通させる、誰かと仲良くし、誰かとなにか新しい関係を築くということは、そこに用いる「言語」がなんであれ難しいことです。こちらが多少英会話をマスターしているからといって、相手がこちらの話を聞いてくれるわけではないということです。

人と人の交流である「コミュニケーション」の「壁」になるのは「言語」だけではないのです。「人」である限りそこには誰にも譲れない「信念」や「信条」、誰も理解することができないこだわり、宗教的な背景、そして「性格」がそこに確実に存在します。そのようなものを乗り越えて、互いに理解しあって、はじめて「コミュニケーション」として成立するのです。それら相手を「人」というユニークな人格として認識できるかどうか、「その人」という世界でただひとりの存在を尊重できるかどうか、そのようなことがコミュニケーションの成否をわけるのです。

「話してみるといい人だった」ということがあります。「なんとなく話し辛いな」であるとか、「あまり印象が良くないな」であるとか、そのような感想を抱いていた相手に対して、「話してみる」ということで好感を持ったり、「実はこういう人だったのか」と改めて納得したり、コミュニケーションとはそもそもそれまで「わからなかったこと」を理解するためのものでもあります。そのようなことを「母国語以外の言語」で実現するためには、あらゆるニュアンスや細かい表現、そして額面の言葉以上の「意味」を理解するチカラが必要になるのは言うまでもありません。

私たちは日ごろから「母国語」である「日本語」を高度に使いこなしています。外国人が日本語でコミュニケーションをとってくれた際にも、そこには私たちが使っている日本語とはまた違う気配を感じることでしょう。私たちが英語を用いれば「欧米圏」の人に対して同じ印象を持たせることになります。そしてなにより、英語を母国語としない人同士が英語でコミュニケーションをとると、互いに「本当に伝えたい表現」というものを押し殺したままコミュニケーションをとることになるでしょう。

そのような状態で意思の疎通を実現するためには、まずは相互に「伝えるための意志」というものを強く持つ必要があるのは言うまでもないことです。人になにかを伝えるためには「エネルギー」が必要です。それは体力的なものではなく、「気力」としてのエネルギーです。相手に「これをわかってもらうぞ」という意志、そして相手の言葉のなかにある「相手の本当の姿、伝えたいこと」を汲み取る意志、どれだけ高度な言語力を身につけていても、最終的には「意志」のチカラがコミュニケーションの成否を左右するのです。

私たちに必要なものは、国籍など関係ない、文化なども関係ない、今ここでコミュニケーションがとれる相手をどのようにして理解するのか、という「意志」なのです。

 

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