以前の学校教育が犯した過ちの英語学習

学校の勉強が好きで好きでしょうがなかったという人はいるでしょうか。用意されたカリキュラム通りに学び、定期的にその学力の定着をテストされ、その結果で「成績」がつけられることが好きだった人はいるでしょうか。

実は私たちは「就学」してからずっと、「人に評価される」ということを続けています。誰かに評価され、その結果褒められたり、自分に足りない部分を改めて発見したりしているのです。「数字」というものは残酷なもので、必ず「結果」として自分が目にすることになるものです。子どもの頃であればそれは「成績」として自分や自分の保護者の目に触れることになり、成績が良ければ一般的には「褒められる」ということになります。成績が悪ければ「もっと頑張るように」と諭されたものです。

それは「大人」になると会社などでの「評価」に置き換わるようになります。組織として利潤を得ている以上、所属する組織が求める「働き」というものがあります。それが営業成績であれ、研究結果であれ、それを満たすことでその組織に「雇ってもらっている」ということに報いることになるのです。仮に自営業などで特定の組織に雇われていなかったとしても、自分の「稼ぎ」という絶対的な指標で社会的な「点数」を付けられているようなものです。

私たちはずっと「評価」されてきました。それは物事を習得する、何かを「成す」ためには必要な、客観的な指標であり、それらを知ることで自分に足りないこと、また自覚していない「得手不得手」などを確認できたのです。ですが、やがて「学校の教育」は、学校の授業だけではどうしても習得しきれない範囲に及びます。私たちは「成績」を伸ばすために学習塾などで勉強を行いました。それは「効率的にテストで良い点数をとる方法」と置き換わり、やがて「受験対策」に発展します。

物事を習得することが、いつしか「テストで良い点数を取ること」、「良い成績を取ること」、「受験に成功すること」に置き換わりました。学んでいる物事の本質はそっちのけになり、「数字」がメインに据えられた学習方法にとってかわったのです。

そのような学び方の中にあった「英語」は、「コミュニケーションできるかどうか」ではなく、「どれだけ良い点数をとることができるか」というものに置き換わったのです。それが、私たちが経験した「英語という科目の学習」です。言語を習得するための本来の目的は「コミュニケーション」であるはずなのに、そこには「点数」という機械的な指標しか見いだせなかったのです。そしてそのように「参考書」、「テスト対策本」、「受験対策講座」などを通じて学んだ英語は、現在私たちにとって何の役にも立っていないという悲劇を産んでいます。学ぶことと、その「先」にある「現実」の乖離が広いのです。歴史を知ってもどうにもならない国際問題があり、数学を知っても自分の給与が変わるわけではなく、ただ「必要だ」と定められた「枠組み」だけが膨張し、学生時代の苦労が引き起こされていたのです。

そのような状況で「英語」に触れてしまった私たちが、「英語を嫌いになった」ことは仕方のないことでしょう。改めて英語が必要になるその局面まで、できれば離れていたいと考えるのは自分のせいではないのです。

 

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