語学は反復の学習

新しい「言葉」というものを習得するのはとても難しいものです。「言葉」を使うということは「理屈」ではないものです。自然に覚えたそれらの言葉を使うのは、また自然なことなのです。

言葉を話せることと、その言葉を「学問」として定義することはまったくの「別物」です。言葉を話せる人が「文法」を理解できるかどうかということは別の問題です。学問として言葉を知る、「アナライズ」、つまり分析するということは、普段使っているその「言葉」を「再認識」するということです。ただ、それは普段の生活においてはあまり実用的なものではなく、慣用句などの「表現」などはケースバイケース、または「TPO」をわきまえるという意味で徐々に身に着けていくものです。文法を知っているからといって「マナー」として存在するそれらの表現を取得できるわけでもなく、「言葉」というもの自体が時代を経て変遷するものですから、普段から使っている言葉、移り変わる言葉に対して自然と追いつくのは当たり前というものです。

そのように取得したはずの母国語でさえも、すべてを知っているというわけではないのですから、新しい言葉を習得しようなどと考えた際の「苦労」は想像しやすいというものでしょう。実際に何人もの人が挫折してきましたし、どれだけ「効率的」に学ぼうとしても、そこには「限界」があるのです。

言語を習得するための最短ルート、時短ルートなどはありません、言葉を覚えるということ自体がすでに膨大な知識と、「発話」という理屈では表現できない技術を身に付けることを要件としているのです。その「要件」を満たすための理屈などは存在しないのです。

そこに必要なことは「反復」した訓練です。同じことを何度も繰り返す根気です。理屈ではなく、身を持って知るということ、身に染み付けるということです。そのためには「繰り返す」というプロセスは必須です。

言葉は「使ってはじめて意味がある」というものです。ただ「知っている」というだけの言葉は、「知識」でしかありません。語学というものは「活用すること」でその存在理由ははじめて発揮するものです。そして、「使う」ことでその言葉は色褪せずにずっと自分のものになるというものです。「使うこと」がそのままその言葉を定着させたままにする秘訣であり、母国語においては「当たり前」になっていることです。

一度覚えた母国語を忘れないのは、毎日使っているからです。私たちの所属する社会で生きている限り、「日本語」は生きるために必要なものです。言葉を理解することができなくなった場合に生じる不利益、不便は、想像が簡単なのではないでしょうか。

それを他の国の言語に置き換えると、まずは「使えない」というところがスタート地点になります。それが母国語であれば社会に参画できないことと同義なのですが、私たちはすでに母国で社会に参画して、働いていたり、納税したり、選挙に行ったりしているのです。

そのような状態から新たしい言葉を覚えようとするのですから、困難なのは当然でしょう。それを乗り越えるためには、「訓練」以外には方法はないのです。聴いて理解できるだけでもだめ、発話のまね事だけでもダメなのです。言葉を理解し、自分でも使いこなすためには、「訓練」が必要です。

 

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